トンズラ (その5)

 弘くんの方を見てみると、彼は洗いあがった洗濯物を隣の乾燥機の中に放り
込んでいた。何気なく、彼の手から乾燥機に放り込まれれ洗濯物を見ていた。
その時、その洗濯物の中に赤い女ものの下着があることに目が留(と)まった。
 弘くんはこちらに背を向けている。
 その彼が、ひょいとこちらを向いた。
 私は、慌てて目を伏せた。
 しかし、私の視線が何を捉(とら)えていたか、彼が気づいたことは晣(あき)
らかだった。
 私は本のページをパラパラとめくった。
『趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を
立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・
飛衛に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中
するという達人だそうである。紀昌は遥々(はるばる)飛衛をたずねて其の
門に入った。』
 『名人伝』の冒頭の一節である。
「子供はまだなんだってね」
 吉田設備の奥さんの説によれば、弘くんの奥さんはまだ人生をエンジョイ
したくて子育てなどにかかわりたくない、ということらしい。例によって、
奥さんの偏見と思ったが、案外、正鵠を射ているのかも知れない。
「し方ないです」
 くぐもった声が背後から聞こえた。
 し方ないとは、どんな意味なのだろう。
 経済的な意味なのか。医学的な意味なのか。夫婦生活の意味なのか。それ
とも、山田設備の奥さんの想像があたっているのか・・・
 [仕事は、たのしいかい?}

「ええ、いろいろ覚えることがあって大変ですけど、仕事はたのしいです」
 弘くんは、テーブルに戻って来た。
「だろうねえ。その年齢(とし)ごろは、何をしてもたのしい時期だからねえ」
「先生は、今でもたのしそうですよ」
「そうかい。でも、僕は家庭をトンズラした男だからねえ」
 
 それから私たちは、中島敦について少しだけ話をした。
 彼の帰り際に、本が欲しかったら家に遊びに来なさいと言って、詳しく家の
場所を教えてやった。私が彼の仕事先に持って行ってもよかったのだが、弘
くんと話しをしたいという気持ちがあった。
 しかし、その後弘くんと会うことは二度となかった。
 
 それから半年ぐらいしたある月曜の朝、山田設備の奥さんから電話があった。
「弘くんが、いなくなったんですよ」
 奥さんの声は、怒りに満ちていた。
「いなくなったとは、どういうことです?」
「先週の土曜日、仕事が終わってから、会社を辞めたいって言って来たんですよ。
あたしは、その夜は親戚の通夜で、泊りがけで実家の兄の家に行かなくちゃなら
なかったんです。それで、ちょっとだけ話を聞いて、あとは月曜日相談しよう
って」
「そしたら、いなくなったんですか?」
「そうなんですよ。今日来てみたら、郵便受けに退職願と手紙が置いてあった
だけ」
「土曜日、彼はなんと言っていたんです?}
「奥さんと別れたから、大阪に行くって」
「やけに、話が飛躍するんですね」
「大阪には兄さんがいるんですよ」
「別れるのと、仕事とは関係ないでしょうに」
「別れても、 お金をせびられているって言うんです」
「そんなの、やらなければいいでしょう」
「そこがそれ、弘くんの気が弱くて、優しいとこなんですよ」
 いくらか、奥さんの怒りも治まってきた。
「で、手紙には何って書いてあってんです?」
「住所が決まったらまた連絡するって」
「それだけ?」
「それから、先生によろしくて。僕もトンズラしますって。先生、弘くんと
知り合いでしたか?」
「いいえ。ぜんぜん」

 私は、その夜、飲めない酒を少しだけ飲んだ。(了)


大隅のヒレ男より

平成二十九年八月二十七日