トンズラ  (その4)
 彼はベニヤの壁の端から、顔だけ覗かせて声を掛ける。
 どういう訳か、文芸部にも立派な碁盤と碁石があった。たぶん、囲碁部から
失敬したのだろうが、そのようなところは学生らしく鷹揚なものだった。

 「暇じゃないですよ」
 私は、振り向きもしない。
「そう冷たいこと言うなよ。文芸部の可愛い娘(こ)を紹介してやるから」
「文芸部には、碌な娘はいないでしょう」
「ま、それもそうだな」

 私が、やはり背を向けたまま碁石を並べていると、吉田さんはやっと諦める。
「分ったよ。じゃあ、今度は三つ置く」

 私が一年のとき、吉田さんは三年だっ た。しかも彼は二年浪人していたので、
歳はだいぶ離れている。最初のころは、ほとんど互角だったが三年の間に
だいぶ差がついていた。彼はそのことを認めたくないらしく、二つ以上石を置こう
としない。本来は四つぐらい置いてもいい勝負なのだが、そこは同郷の先輩と
いうことで免じている。また、彼はすでに卒業しているはずだがまだ大学に残って
いた。勿論、優秀だからという訳ではない。
 体の弱い吉田さんに私はいくらか同情もしていた。
 私は、文芸部の部屋へ移動した。男性が三人、女性が二人。皆顔見知りなので、
「よお」、「やあ」で済む。

 早速碁盤を囲む。
 吉田さんは長考なので、私 の耳は半分は文芸部の方に向いている。
 彼らはしきりに「ブンタイダ、ブンタイダ」と言う。
 私は、最初それが「軍隊だ」と聞こえ、彼らはまだ学生運動でもしているのかと
思った。
 すぐに「文体だ」ということが判ったが、その意味は解らなかった。

 弘くんは、いまそのことを言っているのだ。
 不意に、弘くんの洗濯機から終了を告げるブザーが聞こえた。
 彼が、本をテーブルの上に置こうとしたので、私は無意識に右手を差し出した。
 弘くんも、当然のように単行本を私に渡した。
 背表紙を開いてみると、「中島敦全集3」と記された下に、図書館の印が押されて
いた。裏のカバーを見 ると、定価は千円と記されている。それに税金が付いている。
 私は、山田設備の奥さんの千百円を思い出した。

大隅のヒレ男より

平成二十九年八月二十日

                      トンズラ(その5)へ続く