トンズラ (その2)

 「よお。弘くんじゃないか」

  私のほうは彼のことを知っていたので、思わずそんな挨拶の言葉が出たが、彼のほうは私を見て一瞬たじろいだ様子だった。

 「ああ、先生ですか」

 私を認めるのに、たっぷり二三秒は要した。彼はその二三秒がバツが悪かったらしく、人懐っこい笑顔を泛べた。

 「普段の服装と余りに違うもんですから」

 私はジーパンにサンダルを履き、青いデニムのシャツを着ていた。

 しかし、彼が私を認めるのに時間を要したのは、服装よりむしろその場所にあったのだろう。

  夜八時過ぎ、六十を過ぎた税理士が、洗濯物を抱えてコインランドリーに来るとは、とても予測出来なかたに違いない。

  コインランドリーには、壁際に大きな三つの洗濯槽と、小さな乾燥機が四つ、それに並んでやや大きめの乾燥機が二台あった。入口のほうには、小さな円形のテーブルが二つ置かれていて、テーブルには場違いに立派な黒いい皮のソファが二つ向かい合わせに置かれている。

 私は持って来た洗濯物を空いた洗濯槽の中に放り込むと、弘くんと向かい合わせにソファに腰を下ろした。

 改めて、近くで弘くんを見て、若いなあ、と思った。まだ大人になりきっていない青年特有の匂(にお)やかさがあった。肌の張りとか、たっぷりとした髪の量とか、むろんそんな外見もだが、彼の内面から出てくる柑橘類の香水を想わせるあでやかさは、目も眩むほどのうらやましさだった。

 「何を読んでいるんだい?」

 私の質問は、たんなる挨拶のようなもので、彼の答えに何かを期待している訳ではなかった。どうせ読む本は決まっている。ライトノベルの恋愛ものか、ハウツウものか、あるいは漫画か。

 弘くんはいくらか恥ずかしそうに、膝の上に載せていた単行本の背表紙を私のほうに向けた。

  私は、近視で老眼で、さらに乱視ときているので、その背表紙に余程顔を近づけねばならなかった。

  やっと、その文字を判読したとき、私の驚きは、いくらか感動に近いものだった。

  背表紙には、「中島敦全集3」 とあった。

 私は、思わず弘くんの顔を見た。

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                                         平成二十九年八月十三日

                                              大隅のヒレ男より

 (注) これは大隅ヒレ男のパソコンからフィンへメールで送信しているのですが、二つのパソコンの相性が悪いのか、文章の途中で勝手に行替えがあったり、文頭が移動したりします。一方携帯を見てみると、逆に勝手に行替えしたはずの文がつながっていたりしています。見にくいでしょうが、原因解決するまで 悪しからず。