トンズラ (その1 )

その青年の話は、奥さんから何度も聞かされていた。

 「弘くんが家を出るときも、奥さんは布団の中にいるんだそうですよ」

 あるいは、

 「家を出るとき、弘くんは奥さんから千百円だけ渡されるんです」

 「千百円とは、やけに半端な金額ですねえ。いったい、それはどんな計算になっているんです?」

 「それですよ、先生」

 と、奥さんは口角泡を飛ばすといった塩梅だった。

 ちなみに、奥さんは私のことを時々「先生」と呼ぶ。「先生」と呼ばれる人に碌な人間はいないので、苗字でいいと言っているけど、奥さんは興奮すると女性特有の思い込みで前後のことは忘れてしまうらしいのだ。

 「朝、コンビニで百十円のおにぎりを三つ買って、これで三百三十円でしょう。それと牛乳八十円、サラダ百二十円。お昼の弁当四百五十円にジュース百二十円。ね、ちょうど、合うでしょう」

  私は事務机で領収書と帳簿をチェックしていたが、いまの話を聞いて電卓を叩いてみた。なるほど、表示板に千百と出た。

 「やけに、細かい奥さんですねえ」

 「ケチなんですよ」

 私は弘くんの奥さんに会ったことはない。また弘くんにしても、何度か事務所で顔を合わせてはいるが話をしたことはない。中肉中背、風采もまあまあといったところで、ほとんど印象に残っていない。

 「弘くんは、幾つなんです?」

 「二十五ですよ」

 「子供は?」

 「それがねえ、結婚してもう五年経つんですけど、まだなんですよ」

 「奥さんは、働いているんですか?」

 「働いてはいますよ。一日、三時間とか四時間とか。居酒屋のアルバイトですよ。それでいっぱし働いた気でいるんですからねえ」

 「変な義侠心を出して、奥さんに意見するとかしないでくださいよ。いまの若い男性は優しいんですから」

 「するもんですか」

 と、奥さんは言ったけれども、機会があれば小言の一つや二つは言いかねない様子だった。

 山田設備は、小規模の水道設備業である。従業員は五人で経営も順調だ。

 奥さんは社長より三つ年上の六十三。子供がいないせいか年下の社長に時々甘えた素振りを見せる。いつも小奇麗な身だしなみで、唇に薄く紅を射すことも忘れない。夫に尽くすタイプなので、同性として、弘くんの奥さんが赦せないのかも知れない。

 顔を上げて、壁の時計を見ると、もう五時前になっていた。

 仕事もちょうどキリがよかったので、私は帰り支度を始めた。


 私は独り者なので、夜時々コインランドリーに行く。自分の家で洗濯機を回せば済むことなのだが、ついつい大量に洗濯物が溜まってしまう。それで、コインランド リーに走ることになる。

 蒸し暑い夜だった。かねて利用するコインランドリーが満員だったので、少し遠くまで走った。あまり流行っていない店らしく、五台ぶんの駐車場に車が一台だけ停まっていた。

 駐車場を照らす蛍光灯に何匹も蛾が群がっている。

 中を覗くと、案の定先客は男性一人だけだった。洗濯槽の前に置かれた長いソファに腰をおろし、ひどく前かがみの姿勢で本を読んでいる。

 私が洗濯物が入った大きな網かごを引きずるようにして運びながらドアを開けると、男と目が合った。

 それが、山田設備の件(くだん)の弘くんだった。


 平成二十九年八月十二日

 大隅のヒレ男より

(注) この話は長くなりそうなので、随時掲載します。