A I と棋士の闘い

 つい数年前までは、A I  (人工知能) が、プロの囲碁棋士に勝つということは、到底考えられないことであった。
  ところが、二千十六年三月、A I  「「アルファ碁」 が、当時世界最強の棋士のひとり、韓国のイ・セドル九段に四勝一敗で勝った。
 衝撃であった。
  さらに、二千十七年五月、世界最強の中国の天才棋士柯潔九段に三連勝した。しかも、驚いたことに、そのわずか一年少しの間に、「アルファ碁」はさらに進化していた。
 もう誰も、人間が「アルファ碁」に勝つことは出来ないだろう。
 確かに、今までもチェスの世界では、千九百九十七年に、IBMのスーパーコンピューター「デイープブルー」が当時の王者ガルリ・カスパロフを打ち負かせている。また、将棋の世界でも、「ポナンザ」が、プロの棋士に勝っている。
 しかし、囲碁は別格だ。
 もし、囲碁でプロに勝つA I を作ることができたら、経済においても、科学においても、その他どんな分野であれ、人間より優れた判断が出来る。つまり、世界を支配することが出来るということだ。
  グーグルが、約五百億円かけて、A I開発会社「デイープマインド」を買収したのも目的はそこにある。
 とにかく、囲碁は奥が深い。
 変化が天文学的数値 (数学が得意でないので、こんな表現で誤魔化しています) であることもさることながら、一手一手の価値判断が曖昧模糊としている。部分的にはこの手が絶対というのがある訳だが、序盤や中盤では、たぶんこの手が最善だろう、としか判断出来ない場合も多い。囲碁独特の表現で、「厚い」とか「薄い」とか、あるいは、「味がいい」とか「本手」とか、そんなふうに表現されるのも、その価値判断が難しい故だろう。
 「厚い」というのは、スピード感はないが腰を落した重厚な手というような意味。「味がいい」というのは、敵から攻撃された場合のもろもろの弱点を消した手、というような意味。
 いずれにしても、AIは、こんなふうに表現される手を、プログラム化するのだろうが、とてもそれが正確に導き出されるとは思えない。
 ところが、「アルファ碁」は、序盤においても、中盤においても、終盤においても、プロ棋士を凌駕していた。しかも、いままでは悪手とされていた手を平気で打つ。(ちなみに、囲碁をすること、あるいは盤面に石を置くことを「打つ」という)  勿論、いままで考えられなかったような斬新な手も打ってくる。
 しかし、奥ゆかしいというか、無愛想というか、あるいは不気味というのか、「アルファ碁」は、己の打った手の意味を説明してくれない。

 私のように、趣味で囲碁を打つぶんには、ああ、そうですか、そんな手もありますか、で済むけど、プロの棋士だとそういう訳にはいくまい。
 自分と全く異なる感覚の手を打つ。自分の見ていない世界を「アルファ碁」は見ている。それを「アルファ碁」は説明してくれない。困るに違いない。いままで、体の中にしみ込んだ、あるいは脳の奥深く埋め込まれたその感覚は間違いで、別な感覚が正しいという。何か説明でもあれば、いままでの自分の感覚と折り合いをどこかでつけられるかも知れないが、説明も何もなく、これが神からの手だ、と言ってくる。

 プロの棋士にとって、自分の感覚を変えるというのは、どんなことなのだろうか。素人の考えだととてつもない作業に思えるのだが、それとも案外簡単に新しい感覚を身につけられるものなのだろうか。 (プロの棋士に訊いてみたいものだ )

 いずれにしても、新しい手の意味するところを、訊いてみたいに違いない。

 しかし、「アルファ碁」は、手の意味を説明してくれないし、教えてもくれない。

 説明しない?

教えてくれない?

 はたして、そうなのだろうか?

 ひょっとしたら、「アフファ碁」自体、その手の意味するところを知っていないのではないか?

 私は、そのことに気づいた。

 こんな例はどうだろう。
 A I に「美人」とはどんなものかを教える。
 何十万、何百万もの写真を見せ、この人は美人である、あるいは美人でないと教える。すると、 A I は、自分なりに考えて美人であるか美人でないかを判断出来るようになる。それは、おそらく、顔の中に占める目の大きさだとか、目と目の間の距離だとか、あるいは鼻の高さなどを数値化して判断するのだろう。すると、写真を一瞬見ただけで、点数まで付けて美人であるか不美人かを判断出来るようになる。
 しかし、それは人間の判断とは本質的に異なる。
 人間の判断には 「審美眼」があるが、A I は、単に統計上の数値化に過ぎない。「美」 の本質が分かっている訳ではない。

 囲碁の場合も同じことだろう。いくつかアトランダムに選ばれた着手から、何手か先まで局面を動かし、その中から最も優勢となる手を選んでいるだけなのだろう。だから、打っている手に意味合いを発見しているのではなく、多くの着手から一つを選んでいるに過ぎない。

 A I が、このようにして、その判断に意味を持っていないということは、人間とA I との関係において、二つの側面があるように思う。
 ひとつは、A I はいまだに人間に支配されているということだ。
 A I がいかに神の手を打ったとしても、そのプログラムを作っているのは畢竟人間である。
 A I にとっては意味がないが、その意味付けをしているのは人間だ。
 美人コンテストに選ばれた美人に、「美」 を見出すのが人間であるのと同じことだ。

 もうひとつの側面は、意味がないが故に人間の支配を離れることがあるということだ。
  例えば、金の先物取引で儲けようとした者が、金の取引で利益を出すようにA I に命じたとする。A I は手っ取り早い方法として、アメリカとソ連の軍事基地のコンピュータープログラムに侵入し、同時に核ボタンを押すよう作動させる。そんなことも当然予想される。

 こんなS F みたいな世界が近いうちに現実化するのではなかろうか。

 人類はその危険を避けることが出来るのだろうか。


  大隅のヒレ男より 平成二九年六月24日