不安症

 事務所に勤めている女性が結婚して仕事を辞めることになった。バツイチ一人の子持ちで、もうすぐ四十になろうという年なので、結婚はあきらめているのだろうと思っていたが、どうやら婚活はそれなりにしていたらしい。
 五年ほど事務所にいたので、おおいなる戦力の喪失ではあったが、いくらか薄幸そうに見える彼女が幸福をつかんだことに、私は心から祝福を送った。
 結婚までにひと月ほどあったが、それにしては時々浮かない顔をしている。
 ある夜、私が事務所に残り、ひとり残業をしていると、ドアのガラスをトントン叩く音がする。ブラインドを上げてみると、そこには件(くだん)の彼女が立っていた。
 少しやつ れた顔で、
「話を聞いてもらいたいことがあるんです」と言う。
 私は、彼女と個人的な会話はほとんどしたことがなかったので、少し意外な気がした。
 私は、若い女性に好かれるタイプではないし、ましてや人生相談など受けたためしがない。彼女自身もこうるさい上司ぐらいにしか思っていなかったはずだ。
 それでも、私に話したいとは、余程切羽詰まっているのか、それともだいぶ年の離れた私がいくらかでも人生経験があると思っているのか。
 仕事に関する相談だったら、まず社長にするはずだ。社長は六十五で、人間嫌いなのか、人里離れた海辺に独りで住んでいる。人間の機微が解るような人物ではない。
 とすると、やはり人生相談か。
 彼女が話したことは、私が予想していたとおり結婚に関することだった。
「心配で心配で、仕方がないいんです」
そ の日 は、夜になっても蒸し暑く、彼女は夏物の薄手のTシャツに、ほとんど素顔だった。
 初めて彼女の素顔を見て、なるほど、と思った。
 こうして見ると、なるほど、まだまだ女盛り。それに結構美形ではないか。相手の男性はだいぶ年下と聞いていたが、これなら頷ける。
 それにしても、オレも見る目がないな。
「で、何がそんなに心配なんだい?」
「わたしが、精神科に通っているのは、聞かれたでしょう?」
「ああ、それは以前聞いた」
「不安症なんです」
「それも、聞いた」
「結婚生活がうまくいくか、不安で不安で、仕方ないんです」
「結婚を前にして、何も不安を感じない女性がいたとしたら、それは余程想像力がないか、能天気だろうよ」
「わたしが不安症だというのは、彼にもちゃんと言ってあるんです」
「前にも言ったことがあると思うが、君の場合必ずしもそれはマイナス要因でないよ。その不安症のためだろうが、仕事は完璧にこなす。君に頼んだ仕事はミスがないから、安心していられる。社長も君を高くかっていたよ。それは日々の君の生活や生き方に反映されているはずだ。君はそんじょそこらにいるようないいかげんな女ではない。もっと、自分に自信を持ちなさい」
「そうじゃないんです。彼は、わたしが不安症だからこそ、わたしを愛していると言ってくれているんです。わたしの不安は、もしこの不安症が治ったら、もうわたしを愛してくれないのではないかという不安なんです」
 私は、その言葉の意味を理解するのに少し時間を要した。
 その言葉の意味が解ると、一瞬、彼女はのろけているのか、と思った。
 しかし、彼女の胸の前で、祈るような仕草で組まれた十本の指の、その指先が、強い力のため白くなっているのを見て、息をのんだ。

 私は、何も言えなかった。

 もし、神様がいたら、彼女を強く抱きしめて言うだろう。
「何も、心配しなくていいんだよ。君の心配は、すべて杞憂に終わる」

 しかし、残念ながら、この世に神はいない。

 モームの『人間の絆』に、東方の王様の話が出てくる。
 王様は、「人間の歴史を知ろうと願って、ある賢者から、五百巻の書物を与えられた。国事に忙しいので、彼は、もっと要約して来るようにと命じたのである。二十年後に、同じ賢者は、またやって来た。歴史は、わずか五十巻になっていた。だが、王は、すでに老齢で、とうていそんな浩瀚な書物を、たくさん読む時間はないので、ふたたびそれを、要約するように命じた。また二十年が過ぎた。そして今では、彼自身も年老い、白髪になった賢者は、今度こそ国王所望の知識を、わずか一巻に盛った書物にして持参した。だが、その時、王はすでに、死の床に横たわっており、今はその一巻すら読む時間 がなかった。結局、賢者は、人間の歴史を、わずか一行にして申し上げた。こうだった。人は、生れ、苦しみ、そして死ぬ、と。人生の意味など、そんなものは、なにもない。そして人間の一生もまた、なんの役にも立たないのだ。彼が、生まれて来ようと、来なかろうと、生きていようと、死んでしまおうと、そんなことは、一切なんの影響もない。生も無意味、死もまた無意味なのだ」

 私は、苦しいことに遭ったとき、悩みがあったとき、寂しいとき、この逸話を思い出す。

 生も無意味、死もまた無意味。

 しかし、折角この世に、生を受けたのだ。ほんの少し、自分の歴史に嬉しい思い出が刻まれていれば、それで充分ではないか。
 大隅のヒレ男より。 平成二十九年六月十三日

引用; 新潮文庫 人間の絆Ⅳ P127 作者 モーム 訳 中野好夫